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Car Museum

KARASU - カラス 1965

解説

なんと言っても、これが童夢の原点です。

1965年、林 みのる青年が重症の車造りたい病におかされて悶々とした日々を過ごしていたとき、後のトヨタワークスドライバーとなる同級生の鮒子田 寛から電話があり、そのころ親しくなっていた浮谷東次郎が自分のHONDA S600をGTカーに改造してほしいと言っているとのこと。
さっそく東次郎と会って打ち合わせをしましたが、なにしろ当時はみんな貧乏だったからふたり合わせて予算は6万円しかありません。
今の感覚で20~30万円というところでしょうか。
予定のレースまであまり時間が無いので、とりあえず軽量化と外形の空力対策、とは言っても当時はダウンフォースという概念がまだ無かったから空気抵抗の削 減がメインテーマで、ノーズコーンとファーストバックのハードトップを製作することにしました。
当時、19歳だった林は予算も経験も工場もスタッフも時間も何にも無い状態から製作を開始して、やっと借りた友人のガレージはFRPの強烈な臭いが原因で 追い出され、しかたなく借り物のトラックの荷台で作業を続けたりしていましたが、ついには行き場を失って自宅の部屋に持ち込み、そこでサンダーなんかで FRPを削ったりしたものだから、画家だった父親の絵に白い粉が降りかかって大喧嘩になったり、とにかく、レーシングカーを開発するなんてイメージとは程 遠いプロセスを経て、なんとかレースの前日に形になったという始末です。
途中でS600は足回りの改造のために移動させたので、型をあわせるような肝心のときに現物が無い状態で、いざ現場で取り付けようとすると平気で 2~3cm狂っていたりしてなかなか取り付かなかったのですが、東次郎が新車のS600のボディにドリルでバリバリと穴を開けて無理やり取り付けてくれた おかげで、なんとかレースには出られるようになったのは有名な話です。
その白いボディに取り付けた小汚いFRPパーツは悪い意味でかなり目立っていましたが、そのころ友達になった現在の無限の社長である本田博俊青年(当時) が「戦闘機の防眩塗装にしたらカッコ良いぜ」と言ってつや消しの黒色塗料を買ってきて、みんなで刷毛でぺたぺたと塗ったおかげで、やや粗は目立たなくなっ た次第です。
先のとがった真っ黒な外観から、誰言うと無く「カラス」と呼ばれるようになり、デビュー第一戦の「鈴鹿クラブマンレース」で優勝する事ができました。

 

 

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